アンフォラのつぼ

花鳥風月の写真とクラシック音楽(特に小澤征爾)を追いかけています。

雲崗石窟【中華人民共和国】

登録名:Yungang Grottoes
登録年:2001年
 
 
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 【概要】
山西省大同市の市街地から15kmほど離れた武州山の南麓の岩壁に、東西1kmにわたって穿たれた石窟群。洛陽の龍門石窟敦煌莫高窟とともに中国三大石窟のひとつとされる。
大同を都とした北方遊牧民族鮮卑族が立てた王朝、北魏の文成帝が、僧曇曜(どんよう)の提言によって、460年に曇曜五窟(第16~20窟)が開かれたことに始まる。これほど大規模な石窟群が国家事業として造営されたのは、中国史上初めてだとされる。
曇曜五窟の造営の後、第二期(第1、2、5~13窟)、その後の洛陽遷都後に造られた第三期(第21~45窟)の3つのグル―プからなる。その後は、遷都した洛陽郊外の龍門に造営の主流が移る。
大小5万体以上の仏像が彫られており、西方的、遊牧民族的な彫刻から、漢民族的な風貌に変化していく様子が見られる。
 
 
 
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雲崗石窟の外観。清代に建てられた第5、6窟の楼閣が見える。右手が第1~4窟、左手に第7窟~が続いている。
 
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第3窟の本尊、三尊像。唐代のものとされるが、未完成。第3窟は雲崗最大の石窟。
 
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石窟群。右奥の第7窟から第12窟までが写っている。
 
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第11窟。高さ13.3mの中央塔柱があり、清代に彩色されたため、美しく彩られた仏像群が目を引く。
 
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第11窟東側の千仏。
 
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第12窟の前室は、西方に由来する伎楽天に覆われている。写真中央には、琵琶を奏でる天童子の姿がある。右端の天童子篳篥(ひちりき)を持っている。どちらも西方に期限をもつ楽器。
 
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第13窟の交脚菩薩像。高さは13.5m。北魏後期のものとされる。右手首を石柱替わりの力士像が支えている。
 
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第16窟、如来立像。曇曜五窟の中では、面長の顔と装束から、漢族風の印象が強くなっており、20年ほどの中断ののちに造営された時代の下る様式のものと推定されている。
 
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第17窟、交脚菩薩像。大武帝の皇太子、晃(景穆帝)を表しているとされる。北魏における、皇帝=如来、皇太子=菩薩という考え方が表れているそうだ。
 
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第18窟、如来立像。
 
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第19窟、如来坐像。曇曜五窟最大の窟で、最初に造営されたものとされている。北魏を建国した道武帝を模しているという。
 
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雲崗石窟を代表する第20窟、如来坐像。石窟の前半分が崩落し、露天の大仏となったもの。豊満な顔と彫りの深い目鼻立ちが初期の特徴。
ガンダーラ、インド、中央アジアの様式の影響を受け、その様式をもとに河西回廊(甘粛省西部)地方で定着した涼州様式を媒介として、鮮卑拓跋部の新興の気風を表現する」(『中国の歴史散歩2』山川出版社より引用)とあるように、まさにシルクロードが開かれていたことを彷彿とさせ、なかなか興奮してしまう。
 
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いかにも西域的な横顔。 
 
 
 
旅行記
2004年12月12日
山西省世界遺産の旅の出発に、大同を選んだ。北京フリー4日間のツアーを利用し、日本からネットで北京市内の旅行会社を依頼。北京~大同間の寝台列車「硬臥」で移動。夜11時くらいに出発した列車は、早朝6時前に大同に到着。
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石窟を解説してもらうために、旅行会社に手配しておいたガイドさんと合流。駅の中で朝食を食べ、時間をつぶした後に、雲崗へと出発。氷点下の気温の中、さらに炭鉱の町だからか、煤けたようなにおいのがする空気の中、石窟を見学。所要3時間弱だったと思う。
その後、大同の中心街まで送ってもらい、半日の契約だったガイドさんと別れ、市街のいくつかの名所を見学。
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善化寺の五龍壁。
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明の創始者朱元璋の13子の邸宅跡に残された九龍壁。北京にある2つとあわせて、三大九龍壁と言われるそうだ。
その後、大同駅を夕方に出発する寝台列車で、山西省省都太原に向かって出発した。