アンフォラのつぼ

花鳥風月の写真とクラシック音楽(特に小澤征爾)を追いかけています。

パルミラ遺跡【シリア】

文化遺産パルミラ遺跡
登録名:Site of Palmyra
登録年:1980年
 
 
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【概要】
シリア中部の砂漠地帯のタドモールというオアシスにある遺跡。シルクロードの隊商交易で栄えた古代のオアシス都市である。紀元前6世紀ごろからアケメネス朝ペルシャ支配下に入り、アレクサンドロス大王セレウコス朝シリアの支配を経て、紀元前64年に、共和政時代のローマの属州の一部となった。前後してパルミラ王国が誕生し、期限32年にはベル神殿が築かれた。2世紀にはローマ帝国トラヤヌス帝によってナバタイ王国が併合されてからは、交易の中心がペトラからパルミラに移り、興隆期を迎える。267年に女王ゼノビアが実権を握るが、272年にローマ帝国に降伏し、歴史の表舞台から姿を消した。
現在の町が、遺跡をよけて作られているため、列柱通路や神殿の跡など、街そのものが遺跡として残されている。周辺には墓の谷などもあり、広大な遺跡地域となっている。
 
 
 
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バビロニア最高神で、パルミラの主神ベルを祀る神殿。神殿の大きさは210×205m。各所に美しいレリーフが施された石材が見られる。
 
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ベル神殿の内陣。南北の祭壇にレリーフが残る。
 
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ベル神殿の内陣に残るレリーフ。上部に羽を広げた鳥と、中央部には星や神が彫られている。
 
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パルミラの語源になったナツメヤシレリーフ
 
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町と神殿の間にある記念門。現在、この門の脇を車道が通っている。
 
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やや小ぶりな円形劇場は、列柱通路に面して建てられている。何かの撮影が行われていた。
 
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列柱通路のほぼ中央に立つ四面門。
 
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列柱通路と丘にそびえるアラブ城。アラブ城はイスラム時代になって作られた城塞。パルミラ遺跡の全景を眺めることができる。
 
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列柱の上部には代が付いていて、町に貢献した人の像がそれぞれ乗せられていた。
 
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遺跡の周辺には、広範囲にわたって墓地が続いている。塔墓と呼ばれる大型のものが、遺跡亜kらもいくつも眺めることができる。
 
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車で10分ほど走ったところにあるエラベール家の塔墓。中は3層になっていて、それぞれ華族のみならず、場所をレンタルしていたそうだ。
 
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3兄弟の地下墓室。中にはフレスコ画が残っている。これらの墓には、1日1時間ほどの公開時間にのみ訪れることができる。チケットはパルミラ博物館で購入する。
 
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四面門より北部にかけて、ディオクレティアヌス城砦のあたりまで、住居跡の遺構が続く。じっくり見れば、造りが分かりそうな礎石も残っている。
 
 
旅行記
2010年5月31日
ダマスカスのガラージュ・ハラスターから、パルミラ行きのバスが出る。所要はちょうど2時間。終点ではなく、バス停は遺跡の近くではないので、周りをよく見ておく必要がある。目安としては、進行方向右側にアラブ城が見えればまもなく到着。バス停からはタクシーに乗ることになるが、ここでの出合いは大切。アラブ城のサンセットや、お墓めぐりなど、セットでいろいろ回ってくれるのが普通のようだ。ただ、観光地料金なので、しっかり交渉する必要がある。
ホテルはどうしても遺跡の中の唯一のホテル、ゼノビアシャームパレスに泊りたかったので、予約しておいた。目の前にバールシャミン神殿が立ち、列柱通路まで徒歩5分。夜はライトアップを見ながら夕食が食べられる。
夏場だったので、遺跡は最高気温が47度まで上昇した。いくら乾燥しているとはいえ殺人的な暑さのため、昼間はできるだけ動かない方がいい。間違って動いてしまったために、ひどい目にあった。遺跡には列柱くらいしか影がないので、本当に危険。
ベル神殿では、私設ガイドが声をかけてくる。英語だが、ある程度簡単な英語でがいどしてくれる。やっぱり遺跡はガイドがいると全然違う。300シリアポンドでざっとガイドしてくれるが、今回はお客もいなかったからか、じっくりと通常は入れないところまで案内してくれた。
予約してあったタクシーで、公開時間に合わせて2基のお墓へ。時間が限られるので、パルミラ銃の開国人観光客が集まる。日本人は残念ながらいなかった。一度戻って、日没に合わせてまたタクシーでアラブ城へ。そこで遺跡の全景を眺めると、砂漠の中のオアシスの様子がよくわかる。帰りはあえてタクシーに乗らず、歩いて遺跡へと降りてみた。日没後はほど良く涼しくなって、心地よい。なかなか観光客の行かない、北側の城壁から遺跡へと入り、ホテルまでを散策したが、いかにもシルクロードの夕暮れといった趣で、疲れた割に満足感があった。