アンフォラのつぼ

花鳥風月の写真とクラシック音楽(特に小澤征爾)を追いかけています。

あの日の備忘録

3月11日、
1年がたちました。
昨日のあの時間、各地で慰霊祭が行われる中、部屋で黙祷をするくらいしかできませんでした。
 
昨年はその後の東北各地での惨状と、故郷いわきの被災、水や食料の問題などに追われ、非日常の中のように日々が過ぎて行きました。
そのため、あの日どうだったんだろうという記録を残していませんでしたので、1年前の自分の記録として、書き残しておきます。
完全に個人の備忘録です。
 
 
 
2011年3月11日(金)
この日は年度末ということで、年度内の仕事が終了し、次年度に出すための企画を打合せするというのがメインの日でした。
15時からの外部の方との打合せを前に、別な打合せを1430頃から自席近くのテーブルで打合せを開始。
その15分ほど後、地震が起きました。
揺れ始めてすぐ、近くのテーブルの上に立っている大型の扇風機を押えました。
自分で組み立てた扇風機だったので、不安定と言うことを認識していたためでした。
その後次第に揺れが強くなり、1分以上してから最大の揺れが急激に襲ってきました。
地質学専攻だったので、いつも地震波を感じながら、距離や規模などを推測したりするのですが、まったく浅薄な知識ではおさまらない揺れでした。
すぐさま自席に戻り、パソコンでYahoo!を確認します。
速報は震度3と出ていました。
そんなわけはないと思いましたが、おそらく最初の揺れを感知したものだと感じました。
隣の席の上司は、上部の管機構が外れそうになったため、机の下に避難しました。
 
ひとまずおさまると、今度は急に武将たちがオフィスに入ってきました。
???
なんと、宮城県からやってきた観光PRのキャラバン隊でした。
彼らは、すでに甲冑姿に着替えてしまっていたところに地震が来たようで、予定通りPRを行いました。
まさか宮城が震源とは知らなかったのではないでしょうか。
キャラバン隊がPRを終えたのは15時10分ごろだったと思いますが、ちょうどそのころ、舎内に放送があり、エレベーターが緊急停止していることを告げました。
そして少し遅れて15時に予定していた来客が到着しました。
駅をでたところで 大地震に遭遇したそうです。
小さな会議室で打合せが始まりましたが、余震が多く、小さな部屋は船室にいるようで、打合せが身に入りません。1時間ほどでおおよその話は終了し、事務所が心配と歩いてお客さんは帰って行きました。
 
席に戻ると、意外と周囲は冷静でした。
まだ年度内の仕事を抱えている人たちもいて、それもあってばtばた仕事をしていたようです。
人によっては家族と連絡を取ろうとしている人もいました。
私もいわきに連絡を始めましたが、全くつながりません。
何度かけてもつながらない状況でした。
インターネットでは大津波警報が出されており、6mという記載が10m以上にまで膨れ上がっていました。
家は直線だと海岸から2kmほどか?標高は10mもなかったのではないか?不安がよぎります。
 
鉄道が停まっている情報がどんどんと入り、帰路についての不安も出てきました。
会社の前の通りにはヘルメットをかぶり歩いて帰宅する人たちが現れ、普段の交通量とは比べ物にならない人が歩いていました。
仕事は19時過ぎごろだいたい終わりましたが、嫁が会社にいる関係もあり、さらに当時は妊娠の安定期に入っていないこともあって、できれば歩いて帰るのではなく、電車で帰りたいと思っていました。
この時点では津波の情報はそれほど入っておらず、気仙沼の火事や未確認の犠牲者の情報などが錯綜していました。何と言ってもテレビやネットは交通情報ばかりを流していた記憶もあります。
 
結局電車の再開を待つことにし、近くの居酒屋で夕飯を食べ、深夜に会社に戻りました。
それでもまだ地下鉄有楽町線が走っておらず、また社内の部屋で待機します。コンビニで食糧などを買い出しに行ったものの、残っているものがなく、お菓子とアルコールだけを購入。それらを飲み食いしながら鉄道情報を見守ります。
0時ごろ、大阪の叔母に電話がつながり、いわきの状況を尋ねますと、一度電話がつながったとのことで、無事であるということが分かりました。
まずは一安心です。
その後2時過ぎにいわきに電話が通じ、状況が分かりました。電気は通っているものの、水は止まり、母親が落下物で顔に軽いけがをしたということ、津波については何の情報もないことが伝わりました。
3時を過ぎると、有楽町線が動いているという情報が入りました。
終日運転を決行してくれたことは本当に心強いものでした。
 
ちょうど同じ有楽町線沿線のみなさんと連れだって駅に向かうと、電車が10分おきに走っていました。
行き先はなんと「地下鉄成増」。
本来であれは和光市行きなんですが、なぜかひとつ手前が終点。そして、そこが私の下車駅でもあります。
正直、ホッとしました。
地下鉄は小さな地震がひっきりなしに起こっている中、停車を繰り返しながら進みました。
25分ほどのところを倍近い時間がかかって成増に到着。
家に着いたのは4時過ぎだったと思います。
 
家の台所の食器棚を確認すると、移動はしていたものの一つも割れているものはありません。
本棚もすべて収まったまま。
どうも揺れの方向と配置の仕方が港運したようです。
ホッとしてテレビを付けたまま眠りにつきました。
明るくなる1~2時間後にふと目を覚ました時から、テレビに映る津波の映像を目の当たりにし、自分たちの経験とは比べ物にならないことが起きていたことを、初めて認識することになりました。
 
 
書いてみると、こういうことだったのかと思い出したりできて、良いですね。
まだ記憶が鮮明なので、今後そうこれを見返すことはないと思いますが、何年か後にまた読み返してみようと思います。
 
この震災以来数カ月、涙もろい時期がありました。
「福島」がやり玉に上がるたびに、憤りと悲しさでいっぱいになりました。
でも、このところそういう感情はおさまってきて、今の世論の身に右左、白黒、○×の極論報道にこそむしろ憤る時期に来ています。
震災でこういう風に人の感情は変わっていくのか(マスコミだけかもしれないが)に驚きです。
もうそろそろ、相手の話をきちんと聞かずに、ヒステリックに反対することや、そればかりを報道することは忌めたらいいのにと、震災1年で強く思っています。
原発にしろ、がれき処理にしろ、賛成、反対、中間いろいろの意見があることは当たり前なので、自分以外の意見を聞かず、ヒステリーになるのは、言論の自由ということよりも。民主主義の基本に反していると思ってます。
 
・・・自然と旅のブログなので、あんまり意見らしいことを書くのは好きではないし、本来ではないのですが、このタイミングとして、思いのたけを書いてみました。後ですぐ消すかもしれません・・・。
 
 
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一周忌に寄せて、いわきで津波被害の大きかった薄磯海岸と塩屋崎灯台です。正月の帰省の際に撮影しました。道もせまく家が密集していたあの集落、いつも帰郷するたびに灯台の下で星を見たり友達と話をしたりしていた身近に思っていた場所が、ほとんど空き地になっていました。
 
ただただ、合掌。